野生動物をペットにするということ (なすだ)
ぼくがこれまでいっしょに暮らしたことのある動物は、ヒト、ウサギ、イヌ、ハムスター、カメ。ほかにカエルやザリガニ、魚・虫のたぐいが少々。ごく一般的な種類だ。もうちょっとなじみのない動物とお近づきになりたいという気持ちもあって、それは年々高まっていたのだけれど、この本に出会ったときにしおれてしまった。
日本には年間5000頭以上の霊長類が輸入されている。そのほとんどが野生から連れてこられたものだ。でも、野生のサルを家庭で飼うのはむずかしい。飼い主はもちろん、獣医さんだってサルの飼い方をちゃんと知ってる人なんてほとんどいない。
「本気でサルを飼うためには、さまざまなことをしなければならない。できるだけたくさんの種類の果実や野菜を与え、日光浴をさせ、それができないときには紫外線ライトを使い、気温と湿度にも気をつけ、一緒に遊んであげる時間をじゅうぶんにとって、人を噛まないように『しつけ』もしなければならない」
たいていの人は、そんなことはできないからサルを死なせてしまったり、せまいところに閉じこめて放置するようになってしまったりする。でも、それだけが問題なんじゃない。
オランウータンのふるさとであるインドネシア・カリマンタンの森は、木材伐採のために切り倒され、油椰子を栽培するために焼き払われている。彼らは住み処を追い出されて捕らわれてきた。それら含めて、日本に住むぼくたちの暮らしが彼らのおかれた状況に深くかかわっている。
大阪で保護された4頭は、インドネシアに戻り、彼らを森に返すためのリハビリ施設にいる。けれど、「彼らに森を返す」ことはかんたんにはできない。
ところで、ぼくが長年いっしょに暮らしたいと願っていた動物は、カラスだ。あの日本中どこででも見る、大きくて喧しくて賢い鳥。あの鳥のなかの一羽と関係を築きたいとおもっていた。
カラスを飼うぶんには、ほかの野生動物のような問題はない。首都圏のカラスは人間の暮らしにひっついて生きているんだし、東京都知事なんか彼らを撲滅しようと躍起になっているくらいだ。ぼくが一羽、手元に置くことに問題があるとは考えられない。場所の手当てさえつけば、すぐにでもどこかから連れてこようと。
その「連れてこよう」が大問題なのだ。
イヌやネコのような何千年も人間と一緒に暮らしてきた歴史のある種は、品種の血統を保つ必要もあって、専門の繁殖業者がいる。しかし、ペットショップにいる多くの動物が、繁殖がむずかしくてコストがかかるという理由から、野生から連れてこられている。
オランウータンの赤ちゃんを捕まえるときは、まず母親を銃で撃ち殺す。そして木から落ちてきたところを母親の死体からひきはがす。落ちてきたときに赤ちゃんも死んでしまうことがあるし、輸送中に死んでしまうこともある。だから、密輸されたオランウータンが1頭いたら、その陰には最大19頭もの殺されたオランウータンがいると考えられるという。
カラスの場合を考えてみても、鳥のヒナの飼育はたいへんだし、カラスは貴重な生物じゃないから乱暴に扱われるだろう。ペットショップで売られている1羽のヒナの陰に、何羽の殺されたカラス、孵らなかったタマゴ、死んでしまったヒナがいるのだろう。
そんな殺戮のうえになりたっている「ペット流通」に加担したら、ぼくは石原知事といっしょに「カラス殺し」の仲間入りだ。
この本にはたくさんの写真が載っているけれど、そのなかでも衝撃的な写真に、こんなものがある。
「オリにはいったサル、そのオリには札が付いている。『SALE リスザル \210,000』」
これ自体、動物はめずらしいものの、ペットショップでよく見られる光景だ。そして見た人は考える。「21万円か。高いけど、こんなかわいいサルがいたら、毎日の生活がどんなにたのしいだろう」
ぼくも、カラスのヒナが売られているのを見たら、そんな想像をしただろう。この写真が衝撃的になるためには、著者の足場を借りて、想像を別の方向にはたらかせなければならない。「ふるさとの森にいたなら、森の生態系の構成員として、お金でははかれないような『価値』を持っているはずの彼らが、ここではお金と引き替えることができる商品となっている」。
購入するというのは、そういうことだ。オランウータンの赤ちゃんをペットショップで買うというのは、「このお金をあげるから、母親を撃ち殺して赤ちゃんをひきはがしてここに連れてきて」と依頼するというのと同じことだ。
周りにヒトしかいない生活は貧しい。暮らしのなかにいろんな動物がいてほしい。でも、その欲望を「売られている動物」を手に入れてくることで、なにが起こるのか。その想像力を呼び起こしてくれた本だ。
しかし、そうして起こった想像は、とても危険な種類のものだ。この種の想像をしてしまったら最後、スーパーで売っている「バージンパルプ100% 12ロール298円」のトイレットペーパーだって軽々しく購入できなくなるし、電気のスイッチも入れられなくなる。中高生くらいでこの発想にはまると、自分をふくむ人間社会の存在自体がマイナスそのものにおもえてくる。かといって、自分の生活の背面にあるものを考えずにいれば、どこかで足元をすくわれることになる。こういった現実をつきつけるのは、カルト集団の定番の手段でもある。
この本が、ハードな内容にもかかわらず、小学中学年ぐらいから読めるような本づくりになっているのは、生に対する肯定感の強い子どものうちに、この社会に生きていることがもたらす困惑と出会い、その困惑を抱きながら育ってほしいという願いからだろう。
子どもがこの本によって困惑と出会うことに、大人はどのように手助けができるのだろうか。
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