表紙だけで本を決めようとしているのは、子どもだけじゃない、大人もだったんだ (コリーナ)
この本の表紙を見たときには、「何だ、この本?!」と思いました。ゲームの攻略本かと思いました。正直、あんまり読みたくないなぁ、子どもたちにも勧めたくないな、と思ったものです。ところが、というか思ったとおりというか、大人の思いとは反対に四年生の子どもたちの間ではあっという間に広まっていきました。
ちょうど、その頃国語の単元で「冒険島へ探検に行こう」といった内容のものがあり、その島の谷や川に名前を自分たちで考えることになりました。ところが、どこのグループも同じ名前ばかりをつけてきたのです。沈黙の森、恐怖の山、嘆きの湖…といった次第。なんて、想像力もなくてつまらない、と思っていたらこの名前の出所もこの本だったのです。
作者はエミリーロッダ。「ローワンと魔法の地図」を始めとするローワンシリーズでは、課題図書になった作者です。そちらの作品は、おもしろく読みました。表紙の印象が変わるだけで、読み手の私の捉え方が大きく違うことに改めて気づかされたという思いです。そこで、この本を読んでいた子どもの一人に「その本、貸して」とせまってみました。すると、「いいよ。でも、佐々木君に約束したから、その次ね。」という返事。「ありがとう、じゃぁ待っているね。」と答えると、その近くにいた木村君が「ぼくの、貸してあげるよ。」と言ってきてくれたのです。早速借りて、読み出しました。毎朝、黙読の時間を設けている学校なのでその時間に私は読み進めていきました。クラスの子どもたちも思い思いの本を広げていますが、このデルトラを読んでいる子も3,4人いました。数ヶ月おきに2冊ずつの刊行ということで、そのペースは子どものペースにとてもあっていたようです。まだ私が2巻を読んでいるときに、3,4巻が刊行されたのですが、「先生、まだ2巻なのぉ?」と男の子の顔はなんとも自慢気でした。「お願いだから結末話さないでね。」という私に、「言っちゃおうかな。」なんて優越感たっぷりです。
クラスの中でも遊びの中心になるような大友君も、この本に夢中でした。けれども、彼はときに自分のルールを作ってしまったり、言葉や力の強さで教師の見えないところでその力を出してしまったりするところがありました。教師の前ではよい子で、妥協を見せませんが、その頑張りの反動が友だちの前では、ときに自分勝手な行動をさせてしまうのかとも思いました。その頑張りは家庭でも同じようで、彼の息がぬけるところはどこかと案じていました。その彼が夢中になってこの本を読んでいたのです。私に対しても一歩も二歩も距離を持っていた彼ですが、あるとき何度注意しても本を閉じようとしないので「その先の話、言っちゃうよ。」と言うと「え、先生もこれ読んでいるの?」と声のなかに嬉しい響きがまじっているのを感じたのです。この一冊で私は子どもに少し近づけたように思いました。本は、子どもと教師をつなぐ結び目になるのです。
自分が先に読み始めていた本をまわりの大人があとから読み始めるということは、子どもにとって嬉しいことのようです。大人は子どもの本を簡単に評価しがちなところがありますが、それがどんなに危険なことかという話を以前に聞いたことを思い出しました。子どもが読んで楽しんだ本を大人が勝手に評価し、「そんなつまらない本」とか「読むに値しない本」とか「せっかく読むんなら…」といってしまうことは、その本を読んでいた子どもそのものを否定してしまうことになってしまいかねません。私はこのデルトラで、それをしそうになりました。表紙だけで本を決める子どもに、「読んでみたらおもしろいのに…」と何度も感じていた私は、それと全く同じ思いをさせられたかたちとなったのでした。
この本は、始めに書いたとおり表紙の絵は、とてもインパクトが強いです。でも、読み進めているときにはそれを感じなかったのです。なぜだろう、と考えてみると本文の中にはほとんど挿絵がないのです。ところどころある挿絵も表紙とは違い、ポイントとなるようなマークであったり、キーワードだったりする程度です。想像をじゃまするような挿絵がないのです。(というのは大人の意見かもしれませんね。)子どもたちは、はじめに書いてある地図を何度も見て、頭のなかに想像の世界をすっかり作り上げているのかもしれません。子どもにとっては、予想通り楽しい本であり、私にとっては子どもに気づかされた楽しい本でした。六年生の子ども曰く、「最後のところで、あとひとひねり欲しかったなぁ。」です。ソフトカバーの本に大人のにおいを感じて手にとる年齢もあれば、中味に対してこんな風に言える外も中も大人に成長している年齢の子どももいるとうれしくも思いました。
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