もしかしたら壮大な宇宙が広がっているかもしれない (はしの)
会社から帰宅すると、大きなこぶをつくった息子がいた。おでこのちょうどまん中が、赤いピンポン玉を半分に切っておいたように盛り上がっている。二年生になって二ヶ月、新しいクラスにもなれてきて、何か起こりそうな時期だ。不安を抱きつつも、そのことを息子にさとらせないように、こぶのできたわけをきいてみる。「ちょっと転んだ」とそっけない答え。もともと自分から積極的に学校の様子を話すことは多くなかったが、それでも以前はもう少しまともな答えがかえってきた。近頃は、「本当のことを話すつもりなんかこれっぽっちもないぜ」とでも言うように、当たりさわりのない答えばかりだ。息子が成長するにつれ、何を考えているのかわからない、そう感じることが増えてきた。
そんな息子の心のなかにも、もしかしたら壮大な宇宙が広がっているのかもしれない、と期待させてくれるのが『ビッグバンのてんじくネズミ』(石井睦美・作、長新太・絵 1996・文溪堂)だ。少し前までは、ひとりで遊ぶのなんかごめんだった、まだ小四の”ぼく”は、ある日、ひとりで自転車を乗り回したり、ひとりでぼんやりしたり、本を読んだりするのが好きな”ぼく”になっていることに気づく。そんなとき、”ぼく”は河川敷でひとりのおじいさんと友だちになる。おじいさんは、てんじくネズミ(モルモット)の話をしてくれる。そのてんじくネズミは、ビッグバンに偶然に残されていた「むなしい」という思念そのもので、おじいさんが抱えているむなしさに引きつけられて、ネズミの姿を借りてやってきたのだという。”ぼく”は、おじいさんの話を聞いて、「言葉の意味がわかっても、わかったことにならないことがある。平凡な生活を送っている小学四年生にむなしさがわかるわけがなかった」と思いながらも、むなしさとは何なのかを考えはじめる。そして新しい自分の世界を作りあげていくのだ。
自分の子どもがひとりでぼんやりしていると、誰か一緒に遊ぶ友だちはいないのかと心配になるし、何かすることはないのか、といらだたしくも思う。子どもがひとりでいること、ぼんやりしていることは、親にはそれだけでちょっと抵抗があるのだ。「遊んでばかりいないで、少しは勉強したら?」と言っていた”ぼく”の母親も、「最近、お友だちとほとんど遊ばないんですって」と心配しはじめる。そんな母親の変化に対し”ぼく”はまっすぐな気持ちになれない。
一方で、おじいさんとてんじくネズミとの話を”ぼく”から聞き出したおねえちゃんは、おじいさんとのことを「気をつけた方がいいと思うけど」と注意を促しつつも、「万有引力とは、ひき合う孤独の力である」という詩を読んで聞かせ、「おじいさんは、むなしかったんだろうか?」と”ぼく”と一緒に考え始める。”ぼく”の友だちも、変なおじいさんとつきあっていることに対して、「でも、だからって、おれたちは、おまえを見捨てたりはしないぞ」と言ってくれる。
”ぼく”と親との距離は、以前ほど近くはないのだ。
一緒にいないときの息子の行動をすべて把握できるわけはないし、一緒にいたとしても、何を考えているかなんてわからないことの方が多いだろう。頭の中をのぞくことができたとしても、本当に考えていることはわからないと思う。ますます、そのわからなさの度合いは大きくなっていくだろう。そのわからなさに我慢ができず、すぐに手をだしたり口をだしたりしてしまいがちであるが、ときにはそれをグッとこらえて待つことが、親には必要なのかもしれない。それはとても忍耐が必要で、心身ともに疲れてしまうこともあるだろう。それでも、待ってみようかな、と私は思う。なぜなら、『ビッグバンのてんじくネズミ』の”ぼく”のように、息子の心の中にも、壮大な宇宙が広がっているかもしれないから。
さて、こぶができた理由は妻が教えてくれた。掃除の時間に床を雑巾がけしているところを、仲の良い友だちに背中を押され、床におでこをぶつけたのだ。保健室でしばらく様子をみてから帰宅させますと担任の先生から連絡をいただいたが、帰ってきた本人はこぶのことは何も話さず、遊ぶ約束があるからと元気に公園にでかけたそうだ。押した子の方が自分のしてしまったことに驚いてしまってかわいそうだった、と公園から帰ってきた息子は話したそうだ。
|