DIYの爽快さ (なすだ)
「無人島漂着もの」の物語は数多くあるけれど、これほどDIY(Do It Yourself)の精神に富んだ物語を、ほかに知りません。。
じっさい、彼らは無人島で生きていくためのドリーム・チームです。実用的な知識に富んだ技師、勇敢な新聞記者、経験ゆたかな水夫、器用で勤勉な召使、博物学に堪能な少年、そして賢く忠実な犬。
無人島の定番、火起こしからはじまって、人間の歴史を早回しで見るように、島は「アメリカの一部」になっていきます。食料の確保は、狩猟・採集にはじまって、農耕、牧畜へと移っていきます。それを支える窯業、鉄鉱、木工も発展します。
これらの進展が、大きな喜びとともに描かれています。たとえば、最初、肉は焚き火にあぶって食べることができるだけですが、かまどで鍋をつくり、香草を採集することで、さまざまな調理法ができるようになっていきます。
製鉄ができれば、ハンマーやクギ、かんなや斧をつくることができ、木工の作業はとてもラクになります。そして、家や家具、野獣をふせぐ柵などをつくることができるのです。
さらに、ニトログリセリンを合成して発破によって地形を変え、風車をつくって小麦を碾き、電池と針金をつくって電信連絡ができるようにします。
これらのエピソードひとつひとつが、ディティール豊かなのです。それは、とくにこの物語が書かれた1877年ごろに、活発な発展を示していた化学の世界において顕著です。技師は、ジュゴンやアザラシから脂肪をとり、海藻類を燃やしてソーダをつくります。そうしてグリセリンをつくり、それらの材料から石鹸や爆薬やガラスをつくっていくのです。
これらのものづくりの詳細なガイドに、小学5年生のぼくは、強くひかれました。
そこにあったのは、手でものをつくることの楽しみ、そして、店で買ったものより、自分の手でつくったもののほうがずっと面白く、愛着のもてるものであるという感覚でした。ぼくは、その感覚を、現実の経験とあわせて、もしかしたらそれ以上に、本や映像の世界から得たのかもしれません。
小学生のぼくに、自分の生活を変えるほどの工作はできませんでした。それでも、廃材をつかって木の模型をつくったり、針と糸でパラシュートをつくったり、そうやってつくった自作おもちゃで遊ぶのは、既製のおもちゃとはちがうたのしみがあり、この工夫をたのしむという感覚は、ぼくのなかでは物語の世界とつながっていました。
惜しむらくは、ちゃんとした師匠につかなかったことで、無手勝流な使い方で道具を壊しては、母親に怒られたものです。
この本を読んでいたころに、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」が公開されました。そのなかで主人公の少年、パズーがひとり暮らししている家の、随所に自分で工夫を凝らしている描写に、あこがれと尊敬を感じました。飛行海賊船タイガーモス号なんかも、DIYテイストにあふれた船でした。
ここらあたりから、「ものづくりをたのしむ」感覚が、「新品より愛用されたボロをよしとする」感覚へ転化していき、現在の「消費社会に違和感を感じる自分」ができてきたようにおもいます。
話を『神秘の島』に戻します。いま読み返してみますと、彼らの侵略的なまでに勤勉な開拓は、見えない力といささかのご都合主義に助けられながら進んでいくのですが、終盤になって自然の脅威の前にご破算となります。
ただ、この人間の無力さを痛感させられる展開に直面させられても、そこまでの努力が空しかったという感覚はないのです。今も昔も変わりなく、「自力救済で生活をつくっていくことの気持ちよさ」が読後感として残るのです。
いま、子どものための「ものづくりガイド」の本は、すぐれたものが多くありますが、日本の子どもが現在いる生活状況にふさわしく、おもちゃをつくるものが大半のようです。このように物語のなかで、本格的なものづくりを疑似体験できる作品は貴重だとおもいます。
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