いのちをみつめる (モモ)
小二の娘のハムスターがある日死んでしまいました。娘は何日もめそめそしていました。ハムスターの名前はみーちゃんといいました。パパがみーちゃんを庭に埋めてくれました。娘はみーちゃんのお人形を作ってゲージに入れ、いまでも自分の部屋に置いています。みーちゃんの死は彼女にとって相当ショックだったようです。しかしその直後に亡くなったおじいちゃんの場合はというと亡骸を前にして涙を流さなかったのです。遠く離れたところに住んでいたとはいえ一緒に旅行に行ったり、長い休みには何日も泊まっていろいろ面倒をみてもらったかけがえのない祖父だったと思うのですが……。
しばらくしてから娘にさりげなく尋ねてみました。「だっておじいちゃんは一緒に暮らしていないもの」という答えが返ってきました。彼女にとって「死」は自分が愛情を日常注いでいるものが死を迎えたときのものであって、それ以外はニュースで報じる悲しい事件を見聞きするのと同じ次元なのでしょうか。「死」を考えることは命の大切さを知る良い機会だと思い、娘と一緒に「さよならエルマおばあさん」を読みました。
エルマおばあさんが自分に残された時間にしたことは、親しい友達や親戚に別れを告げ、家族の歴史を書き記し、死を迎える心の準備を家族と語らうことでした。
そんなおばあさんの勇気と優しさに、家族はおばあさんと一緒にくらせてほんとうによかったと思います。そしておばあさんとの思い出をずっと忘れないからとも思うのです。家族にとっておばあさんはかけがいのない存在だったのです。人が生まれる前の世界と命が終わるまた終わっての世界については誰も知るよしがありません。だから死について語ることはタブーになっているのか、または不安があるのです。死を迎えるのは家族にとっても大きな衝撃です。だからこそ、エルマおばあさんの穏やかな死は悲しみ以上に人として生まれ、くいのない人生を過ごせたことへの満足感を感じさせてくれます。
読み終わったあと娘を見ると目にいっぱい涙をためていました。おじいちゃんの死がいまさらながら脳裏をよぎったのでしょうか。それでも彼女にはなんとも穏やかな表情も伺えました。話をするのはまた後の機会にしようと一人部屋をでました。部屋のなかではもう一度ページをめくる娘の姿がありました。
|