大丈夫、ともだちはきっとできる (はしの)
『ともだち』に再会したのは、もう20数年も前のこと、中学1年生の時だ。バスターミナルに近い小さな本屋、黒ブチのメガネをかけたおやじさんが一人で店番をしている。僕はいつものように、文庫本の新刊の中におもしろそうな本がないか探していた。偶然手にした佐藤さとるの作品集、その中に、このお話『ともだち』はあった。目次に記された『ともだち』というタイトルを見たとたん「これだ」と感じ、読んでみて「間違いない」と思った。僕は、懐かしさよりも何だかわからないうれしさで興奮して、家に帰って、クラス担任と生徒との交換日記「個人ノート」に、その再会の歓びを書きまくった。
『ともだち』と初めて出会ったのは、さらに遡ること約10年、保育園の時だ。月に1回配られる幼児向けの月刊誌「ワンダーブック」に、このお話は掲載されていた。赤ちゃんだったとき、ポストに「あ、あん」とあいさつしたのをきっかけに、タツオは幼稚園に通うようになってからも、その行き帰りに必ずポストにあいさつするようになる。毎日タツオにあいさつをされるポストは、一度でいいからタツオと一緒に歩きたいと思う。そして明日から冬休みというクリスマスイブに、神様のおかげで、ポストはサンタクロースになってタツオに声をかけることができる。『ともだち』は、こんなとても短いお話だ。
僕が通っていた保育園は、私たち家族が住む多摩川の支流近くの都営住宅のほぼ真ん中にあった。自宅から保育園までは歩いて数分。ベランダの手すりの間からのぞけば、保育園の門扉が見えた。とても近かった。残念ながら、通園途中にポストはなかった。都営住宅の敷地内は、建物も道路もすべてコンクリートで固められていたけれど、敷地を出れば、アメリカザリガニを何匹もつかまえることのできる沼地があったし、多摩川の支流の河川敷には、自分の背よりも高い葦が生い茂っていて、そこを歩くのは冒険だった。四つ葉のクローバーが生えている原っぱだって知っていたし、怖くて一人では行けないひっそりとした神社には、沢山のどんぐりが落ちているのを知っていた。そんな場所で、保育園のともだちであるワタベ君やババ君と一緒に毎日遊んでいたのだ。そんな僕にとって、横浜に引っ越すことは大きな事件だった。
引っ越しのことをどのようにしてともだちに伝えたのかわからない。「引っ越すんだよ、知らないの」と責められるようにババ君に言われたワタベ君は、その日の夕方、お別れの品の24色の色鉛筆を持って、お母さんと一緒にうちへやってきた。お母さんの後ろに隠れるようにして立っていた悲しそうなワタベ君の顔を僕は憶えている。
卒園式の前に引っ越してしまった僕は、往復5時間かけて卒園式に出席することとなった。卒園の記念にもらったきいろいパンジーの花を胸に抱え、多摩丘陵の緑が窓の外になだらかに続く電車に揺られる自分の姿を思い浮かべることができる。そして、その時のさみしいようなうれしいような気持ちを一緒に思い出すことができる。
僕は、『ともだち』が載っている「ワンダーブック」を荷物の中にしっかりと詰めて引っ越したのだ。母親は捨てようとしていたけれど、このお話だけは捨てることなんか出来なかった。このお話の中で、僕はタツオではなくポストになっていた。「自分がサンタクロースではなくてポストであることをタツオに言ってしまえばいいのに」「一回だけでなく、好きなときに話しができれば良いのに」とポストの気持ちになってこのお話を読んでいた。「ワンダーブック」に本当にそんな絵があったかどうか疑わしいのだが、私の記憶の中のポストの姿は、声をかけたくても声が出ない、手をさしだしたくてもさしだせない、一緒に歩きたくて歩き出せない、そんなやるせなさで、ぐにゃぐにゃになっているのだ。
大人になって、一男一女の父親となった僕は、息子が小学校にあがる3ヶ月前に引っ越しをした。息子は、幼稚園で仲良しだったともだちと一緒に小学校に通えない。同じマンションに新入生が10人もいるのに、息子と同じクラスの子どもはいない。他の子どもたちは同じクラスの子どもとどんどん仲良くなっていくのに、息子は授業が終わると一人でダッシュで帰ってくることが多く、とても心配だった。
2学期も終わりに近い天気の良い日曜日、キャッチボールを終えてのどがかわいた僕と息子は、道路の向こうにあるコンビニに寄ろうと、信号が青に変わるのを待っていた。向こう側の歩道を一人の男の子が歩いてくる。ちょうど息子と同じぐらいの年頃だ。その子が横断歩道の前に立つ。突然、隣りに立っていた息子が手をあげて、「よおっ!」とあいさつした。
サンタクロースになって、タツオと初めて話しをして、手をつないで一緒に歩いていくポストの浮き立つ気持ちのように、僕はとてもうれしかった。
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