力いっぱい踏んばる感覚(なすだ)
子どもが物語の世界にはいりこむやり方に、「登場人物と一体化する」というのがあるが、ぼくにはあまりそういう覚えがない。小学校の2年生から4年生にかけては、冒険推理小説をずいぶん読んでいたが、ルパンは大人だし、小林少年は古くさい良い子口調が自分の感覚とあわなかった。那須正幹の『ズッコケ三人組シリーズ』で言えば、ハカセが自分の役回りなのだろうが、そういう「わりふられた」人格には、どうにもすなおに感情移入も共感もできないのだった。
そんなわけで、ぼくの読書の志向は、観客として映画のスクリーンを見るようにストーリーをたのしむものや、知識を得るよろこびのあるものにかたむいていき、その両方を満たしてくれる(ハデな画面を見せてくれて、啓蒙の要素もある)SFへと向かった。
けれど、やはり最初の本との出会いには、登場人物と一体化する感覚があったのだ。ぼくが一体化したのは、タグボートと消防ジープだった。
『たんたん たぐぼーと』は3歳から5歳くらいにかけて、図書館から何度となく借り出して母に読んでもらい、やがて自分で読むようになった。ものすごく好きな話だったということだけはわかるのだけれど、話の内容はまったく覚えていない。たぶんタグボートが港の中で元気に働く話なのだろうとおもう。唯一あざやかに覚えているのは、港内を波を蹴立てて進むタグボートが描かれた表紙だけれども、これすら自分のなかで捏造された記憶かもしれない。
『しょうぼうじどうしゃ じぷた』は5歳ごろに買ってもらった本で、ずっと手元にあったのでストーリーははっきりと覚えている。町の消防署でちびの消防ジープが、はしご車の「のっぽさん」や救急車の「いちもくさん」と並べられ、肩身を狭くして暮らしていたが、ある日、ほかのだれも行けない山奥に出動して、山小屋の消火に活躍するという話である。
この本にはラボ教育センターがつくった英語教材版テープがあり、そこでは「のっぽさん」や「いちもくさん」は、それぞれ自分の長所をアピールするテーマソングを、得意げに歌う。なんと鼻持ちならない奴らだろうと、じぷたの劣等感と羨望を痛いほどに感じた。
この2つのお話がとても好きで、何度もくりかえして読んでいたのだが、なんで好きだったのかということは考えたことがなかった。でも理由はしごく簡単で、ぼくはクラスで1、2を争うチビだったのだ。
タグボートやじぷたは強力な内燃機を積んでいるから力持ちだったが、ぼくはふつうにチビらしく非力だった。それでも、この物語に読みしたしみ、彼らと一体となって活躍するうちに、なりは小さくてもがんばればやれるんだという幸福な錯覚は、ぼくのなかにしっかり根づいた。そしてそれは、小揺るぎもしないように見える大きな船も、ともづなをひっかけてからだ全体で引っぱれば少しは動く、という正しい力学的認識へと育った。
低い姿勢で大きな船をぐんぐん引っぱる「やすべえ丸」、狭い山道を軽快に駆け抜けるじぷた。ああいう「頼もしいチビ」になりたいという感覚がずっと残っている。
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