「きらい」っていうのは「すき」っていうことだよね!(はしの)
ひらがなとカタカナと少しの漢字を読めるようになった小学1年生の息子は、2つ下の妹に、『ノンタン いもうと いいな』(キヨノサチコ 作・絵、2001年・偕成社)を読んでやることがあります。
ノンタンの妹、タータンが初めて登場するお話です。ともだちとの遊びに夢中になって「いっしょに あそんで やんない!」と妹タータンにつめたくしてしまうノンタンですが、いざ妹の姿が見えなくなると「あ〜、タータンが いない!」とあせって探しまわります。息子はこの台詞のあとにこう付け加えます。「まあ、いいや、ほうっておこう!」って。自分と妹との関係をノンタンのお話にかさねているわけです。
そんな息子の気持ちを見事にあらわした本があります。『すき ときどき きらい』(東君平 文・和歌山靜子 絵、1987年・童心社)です。
登場人物は、主人公のぼくと、2歳になる弟と、父さん、母さんの4人。こどもに対する普段の自分の姿とだぶらせて、親は読みながら複雑な顔になってしまうかもしれません。お話の中でのぼくと弟との関係は、私の息子と妹との関係にとてもよく似ていて、二人のお兄ちゃんの気持ちはピタリとかさなります。
たとえば、ぼくが弟のまねをして赤ちゃん言葉を使うと「なによ おにいちゃんなのに」って笑われるし(我が家とおんなじ!)、弟は手でごはんを食べてもおこられないのに、ぼくがこぼすと母さんは怒るし(これも、おんなじ?)、父さんは「おはしは もっと ながくもって」って怒る(私もです!)。一方で、弟が母さんに叱られているとかわいそうになって「ぼくの おとうとだから おこらないでほしいと おもう。」(息子も「だいっきっらい、もうぜったいあそばない」といって妹を泣かすこともあれば、母親に叱られている妹を見て、「かわいそうだから、もう、おこらないで」と泣きそうになったりします。)
この本の最後で、ぼくと弟と父さんは一緒に散歩にでかけます。「おとうとは すきか」と父さんにきかれたぼくは、こう応えます。「えーと すきなときもあるし きらいなときもある」。『すき ときどき きらい』という、なんとも複雑な感情がこどもの心の中にうずまいているわけです。そんなぼくに、父さんはこどものあたまをゴシゴシとこすりながら、「とうさんは みんな だいすきだぞ」っていうんですね。大きくなったらこどもの記憶からは消えてしまう何でもないことですが、こどもと父親の心がふれあった一瞬として、その感覚だけはずっと心に残るんじゃないかと思わせる出来事です。
しかし、ひねくれものの私の心の中から「どこのお父さんもこんなにデキた親なのかなあ」と疑いがわいてきます。それは、主人公のぼくが弟のことを、すきになったりきらいになったりするように、私の息子が妹をすきになったりきらいになったりするように、父親の私も息子のことを、すきになったりきらいになったりするからです。いつでもどんなときでも、頭をゴシゴシしながら「とうさんは みんな だいすきだぞ」なんて心の底からいう自信はありません。同性だからでしょうか、どうしても息子の欠点ばかり見えてしまい、おまけにその欠点というのが、実は私から引き継がれた欠点なものだから、余計、疎ましくおもってしまうのかもしれません。
でも、私はこんな風に考えています。感情のベースにあるのはすきという感情で、その上にきらいという感情がある。すきだからきらいと思うことができるのだと。私の息子は、この本のタイトルを「きらい ときどき すき」と読んでいますけどね。
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