卑怯? 勇敢? 仕立屋の大活躍! (なすだ)
学校というところは、いろいろと人をくらべるところです。
小学校に入るなり、おまえは駆けっこだとクラスで何番目だの、覚えた漢字の数はいくつだの、忘れ物のをこれだけしただの、いちいち物差しで計って、「お前はこのていどの存在だ」とおもいしらせようとしてくれます。
そんなふうに並べられ、人とくらべられることに窒息しそうだったぼくに、この話は大きな衝撃でした。
「布きれひとうちでハエを7匹やっつけた」という一事で、これほどまでに強く自分を肯定する仕立屋は、もはや心の師匠と呼んでもいいほどです。彼の語りだしからして振るっています。
「洋服というのは、ポケットのあまりついてないほうが高い。それでおれは、ポケットのたくさんあるのをつくる」
実用性のない、お高くとまった服への反発が語られています。そして、ポケットがいかに便利かということを、得々と語りだすのです。
「ひとうちななつ」の大戦果に気をよくした仕立屋は、自分のすごさを世に知らしめようと旅に出ます。もちろん、ポケットにいろんなものをつめて。
物語のクライマックスは、2人の巨人を森に退治にいくくだり。昼寝している巨人たちに木の上からこっそり(ポケットにつめた)石を投げ、巨人同士を仲たがいさせ、大げんかして両方が疲れはてさせてやっつけます。
このやり方、たしかに卑怯なのです。でも、どうでしょう。なら、小さいものを相手に力くらべを強いる巨人やほうび惜しさに次々と仕立屋を死地に追いやる王様は?
卑怯かどうかは、手段だけでは決まらないのです。力のあるものがその力をもって弱者をおさえつけるということもまた卑怯なのです。
そうして押しつけられた競争を悠々とすり抜け、「力の強いものがえらい」というルールの裏をかくことの愉快さを、この仕立屋の活躍は示してくれています。
この話ももとはグリム童話ですので、たいがいは定型的な三人称の語りです。原典に近い形から紹介しますと、
「とある町で、一人の仕立て屋が仕事をしている時に、りんごを一つ、そばに置いておいたら、たくさんのはえが(略)それにとまった。」『【初版以前】グリム・メルヘン集』(フローチャー美和子・訳、東洋書林)
「ある夏の朝、ちびの仕立屋が、窓辺の仕立て台にのっかって、ごきげんでせっせと縫い物をしていた」『完訳クラシック グリム童話1』(池田香代子・訳、講談社)
「ある夏の朝のことです。ちびの仕立屋さんが窓ぎわの仕立台にむかって、いいごきげんで、いっしょうけんめい、ぬいものをしていました」『完訳版 グリム童話集(1)』(矢崎源九郎・訳、偕成社文庫)
おなじ語り出しでも、ずいぶん受ける印象がちがうものですね。『初版以前』は民俗調査のテキストらしくそっけないですが、『クラシック』になるとだいぶん
調子よく聞こえます。『完訳版』は敬体で「仕立屋さん」と呼んでいることもあって、かわいらしい感じがします。これが『ラボ版』ですと、冒頭に紹介したポ
ケットについての講釈が加えられたうえ、こうなります。
「あれは夏の朝だった。おれはたいそう上きげん、トウ・ラ・ラ・ラ・トゥ・ラ・ラと仕事をしていた」
タイトルも、
「王、仕立て屋、一角獣、イノシシ」『初版以前』
「勇ましいちびの仕立屋」『完訳クラシック』
「いさましいちびの仕立屋さん」『完訳版』
「ひとうちななつ」『ラボ版』
とそれぞれにちがった性質が出ています。
ハエを退治した場面では、
「おれは自分のたくましさにうっとり。『なるほど、おまえはそういうたいした男であったのか。これは町じゅうに知らせねばならん』」『ラボ版』
ときて帯に「ひとうちななつ」の刺繍をします。対して、
「じぶんのいさましいのに、われながら感心してしまいました。『こいつは、町じゅうに知らせてやろう』」『完訳版』
だと刺繍は「ひと打ちで七つ」。
「『おれさまは、こんなにたいしたやつだったのか?』仕立屋は、自分の勇ましさに感心せずにはいられない。『こいつは町中にふれてまわらなくちゃ』」『完訳クラシック』
刺繍は「一打ち七匹!」。
こう並べて書くと、大げさな感じが増し過ぎて、師匠への敬意も薄れてきますが、とどめを刺すのが、
「単純な仕立て屋だったから、それを見て、これはすごいことになるぞと思い、すぐにとてもきれいなよろいを作り、その上に金色の文字でこう書いた。『一打七闘殺』」『初版以前』
単純と言われると、返す言葉がないです。
ともあれ、この「ひとうちななつ」というちょっと聞いてもわからない、でも語呂のいい言葉をキーワードにして、タイトルにまでもってきたことが、『ラボ版』のたくみさでしょう。
そして、「おれも男だ。ひとうちななつだ」と見得を切って危険に立ち向かうさまが格好いいのです。この語りから受ける印象は、三人称の語りから受ける「ちびの仕立屋が要領良く立ちまわる物語」の印象とはずいぶんちがいます。
一人称の語りは、近所のおじさんの自慢話を聞く感じです。この実在感があってこそ、ぼくもこの物語に主人公の視点から強く入りこむことができたのでしょ
う。こういう子どもにホラを交じえて武勇談を語る、人生をめいっぱい楽しんでそうなおじさんって、最近じゃあとんと見かけなくなりました。
この物語を、ポケットを主題に改変して、威勢のいい一人称の語りに再話したのは「らくだ・こぶに」こと谷川雁さん。労働運動と詩作のなかに生きた人です。
なるほど、おおきな力と闘ってきた人であればこそ、こういう痛快な語りができるのか、と納得しました。
原作では主人公は王様の座につきますが、らくだ・こぶにさんには彼が権力の側にいくのが我慢ならなかったのでしょう。ラストを改作して、王をさんざんにへこませたあと、仕立屋稼業にもどることにしています。
「なにがなんでもおいらは仕立屋。
でも世界一つよい、ひとうちななつ。
そして、ポケットのいっぱいついた服が大すきなのさ。」
という引きが、このアイデンティティの物語をみごとに完結させています。
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