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学校でこそできることとは、なんだろうか

学校でこそできることとは、なんだろうか

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学校でこそできることとは、なんだろうか

発行日 2005年05月発行
判型 四六判・上製
頁数 216ページ
価格 本体 2400円+税
ISBN ISBN978-4-8118-0716-4
Cコード C0037

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内容

子どもたちが集まって、ひとつのことがらを、協働的に、持続的に、かつ知的に追究できる場として、学校以外に現在、どのような場があるだろうか。出口のみえない学力論争を超え、「人として育つ」ための学びへ。

目次

第一章 ふたたび学校について
1 天は人の上に人を造らず。されども、と諭吉はいった
2 機会均等とは、不平等になる機会が均等に与えられる、ということで
3 さりとてネガティブなものをネガティブなものとして語るだけでは
4 既有の認識の枠組みがぐらり、とゆらぐ授業をめぐって
  ●─「あしたの授業」を考える
  「燃焼」と「呼吸」をつなぐもの──ある日の参観授業から
  エネルギー問題──授業化の視点

第二章 人として育つことが困難な時代に、学びは
1 虎は虎であることをやめない。だが、人間は──
2 収奪と過剰給付のやまぬこの現実を土台にして、子どもたちは育つのだとすれば
3 思考のプランクトンは、世界と身体との界面でざわめく
4 架橋すること。経験と知識を、身体とことばを、個と個の学びを
  ●─「あしたの授業」を考える
  「国語」教育の内と外──他教科とリンクする「読み」の試み
  粉の文化と粒の文化──フレネ教育・授業づくり交流にむけて

第三章 学校でこそできること
1 生活知から概念知への「渡り」について──タイの子どもと学校
2 デューイ実験学校での「学び」について──社会的オキュペーション
3 六歳児たちが獲得した「世界」について──模倣と示唆、興味の広がり
4 知ることで発見される「未知」について──日本での試み
5 経験を知の体系へ導く「意味の広がり」について──遊びと労働と知
6 協働と参加をうみだす「磁場」について──「市民」形成の場としての学校
7 比較すること、翻って「教科と総合」について──学びのパースペクティブ

後記

著者紹介

里見実(さとみみのる)

1936年生まれ。1965年から2007年まで國學院大學に勤務したのち、現在は現代教育思想や中南米演劇などの研究と翻訳に取り組む。
おもな著書に『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』、『働くことと学ぶこと』、『学ぶことを学ぶ』、『学校でこそできることとは、なんだろうか』、『学校を「非学校化」する』(以上、小社刊)、『ラテンアメリカの新しい伝統』(晶文社)、『タイにおける地域再生運動に学ぶ』(農文協)など多数。
おもな訳書に、パウロ・フレイレ『希望の教育学』、ピーター・メイヨー『グラムシとフレイレ』(以上、小社刊)、ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを』(監訳、新水社)、アウグスト・ボアール『被抑圧者の演劇』(晶文社)などが、共訳書にパウロ・フレイレ『伝達か対話か』、モアシル・ガドッチ『パウロ・フレイレを読む』(以上、亜紀書房)などがある。

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